哲学の池

ここは哲学な読みものが棲む池。 哲学・その他の科学・雑学について、わかりやすさを目標にして運営しているブログです。 知的好奇心を満たしたり、時間つぶしにどうぞ。

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科学(かがく)化学(かがく)は読み方が同じなので、たまに間違える人がいます。
その間違えを正すために、科学と化学の違いの説明を書きます。

科学とは

”科”学という字にあるとおり、それぞれの専門の科の学問(勉強)のことを指します。
学科には数学、文学、社会学など様々あります。
「学科」が分かりにくい場合は、数学=算数、文学=国語、社会学=社会、という風に学科を「教科」に置き換えて考えてみてください。

化学とは

”化”学もその字にあるとおり、物体が化(ば)ける、変化することを学びます。
物体が変化するとは何でしょう? たとえば下のような変化があります。

  1. 氷を熱すると溶けて水に変化します。(氷+熱=水)
  2. 水を熱すると水蒸気に変化します。(水+熱=水蒸気)
  3. 水蒸気を冷やすと水に変化します。(水蒸気ー熱=水)
  4. 水を冷やすと氷に変化します。(水ー熱=氷)

この場合は、氷→水→水蒸気→水→氷が物体の変化です。
もうひとつ具体例をあげます。

  1. 南極の氷のかたまりが、温暖化で溶けて、南極の海の水になります。(氷+熱=水)
  2. 南極の海の水が、暖かいハワイに流れて蒸発して空に昇り、ハワイの空の雲になります。(水+熱=水蒸気)
  3. ハワイの空に浮かんだ雲が、寒い南極まで運ばれて冷えて雨になり、南極の海の水になります。(水蒸気ー熱=水)
  4. 南極の海の水が冷えると、南極の氷のかたまりになります。(水ー熱=氷)

化学は、物体の変化を学ぶ専門の学問(勉強)なので、科学に含まれます。
つまり、科学という大きな枠組みの中に、化学(理科)、数学(算数)、文学(国語)、社会学(社会)、、、などがあるということです。

最後に

科学(かがく)と化学(かがく)は同じ読み方なので、言葉で喋るとどちらの「かがく」か分からなくなります。
そういった問題を避けるために、化学の方を「ばけがく」と発音することもあります。

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1.空観(くうがん)

紀元前5世紀頃に釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が悟った真理の中に、縁起(えんぎ)というものがあります。

「縁起」とはその言葉からすこし想像できますが、この世の物事はそれ自体が単独で存在しているのではなく、他の物との関わりの結果、存在しているという考え方です。
例をあげると下のような感じです。

  • 土があるから山がある(山自体が単独で存在するわけではない)
  • 水があるから川がある(川自体が単独で存在するわけではない)
  • 木があるから森がある(森自体が単独で存在するわけではない)

では、この「縁起」の考え方をさらに突き詰めてみるとどうなるでしょう?

例えば、森は木の集合の結果ですが、木は葉や枝や幹から成っています。
葉を分解すると小さな葉になり、さらにその葉を分解すると小さな小さな葉になり、繰り返すことで、ほとんど大きさが無いような小さな粒子になります。それは枝や幹も同じです。

このように物事はそれ自体が存在しているわけではなく、何かの集まりでそう見えているだけ、という見方を「空観(くうがん)」と言います。
すべては、空(くう)であり、空(から)であるということです。

「空観」では、たとえ人間でも分解していくと、細胞のかたまりになり、さらに細胞を分解すると小さな粒子になることから、人間というのは単独で存在しないことになります。

それが自分の好きな人間であっても、結局は粒子の集合であり、その人間自体は存在しないことになります。ということを考えると、「空観」は物事の存在を否定するため、虚しさや無気力さという苦しみを生みます。

2.仮観(けがん)

物事はそれ自体は存在しないという「空観」に対して、空(くう)なる物事が、仮にそれ自体が存在するという見方をするのが「仮観(けがん)」です。

  • 山は山として単独で存在する
  • 川は川として単独で存在する
  • 森は森として単独で存在する

「仮観」では自分の好きな人間、それ自体が存在する喜びもありますが、一方で自分の嫌いな人間も、それ自体が存在することになるため、自分の嫌いな人間への憎しみにとらわれて、苦しむことになります。

3.中観(ちゅうがん)

「空観」と「仮観」の両方どちらも苦しみがあることが分かりました。
この二つの物事の見方で生まれる苦しみに対して、2世紀頃に龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)というお坊さんが「中観(ちゅうがん)」という別の物事の見方を説きました。

「中観」というのは、言葉どおり「空観」と「仮観」の中間の物の見方です。
「仮観」では物事はそれ自体が存在しますが、それをさらに「空観」で見ると、「縁起」によりすべてのものが関係して「意味」があるように見えてきます。

たとえば、自分の嫌いな人間それ自体が存在する見方(仮観)をしますが、その嫌いな人間が働いたり、買い物をすることで、社会に税金が入ります。
その税金が巡り巡って、それ自体が存在しない見方(空観)をしていた自分の好きな人と生活するための道路や橋に使われることになり、結果として自分の幸せに関係(縁起)することになります。

このように、「中観」ではすべての物事が存在して関係している見方ができるため、物事に「意味」を見出すことができます。そしてこの「意味」によって、虚しさや無気力や憎しみなどで苦しむことなく、穏やかな心で過ごせるようになるということです。

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釈迦(ゴータマ・シッダールタ)

紀元前5世紀頃。
現在のインドのとある国の王様の子、王子として釈迦は生まれました。
釈迦は王子として何不自由なく裕福な生活をして育ちましたが、幼くして母親を亡くしてしまいます。
その影響もあったのか、釈迦は多感な青年に育ち、様々な人間の苦しみに気づき、それに悩むようになりました

  • 人はなぜ老いるのか
  • 人はなぜ病気になるのか
  • 人はなぜ死ぬのか
  • そして人(私)はこの苦しみから解放されるのにはどうしたらよいのか

釈迦は王子として立場があり、嫁を取り、子供も生まれ、順風満帆な人生を送っているように客観的には見えますが、内面は苦しんでいました。

そして29歳の時

夜中に一人で城を抜け出して、人生の真理を求める修行の旅に出ます。
当時のインドでは真理を追究するために苦行(苦しい修行)を行うことが一般的だったので、釈迦も苦行をするために、ある仙人のもとに行き、話を聞きました。
しかし、その仙人は生きているうちに苦行をして、できるだけ苦しむことで、死後の世界や来世をよりよいものとすることを目的に修行をしていたので、釈迦はこれでは真理が分からないと思い、仙人のもとを離れました。

釈迦は自分で苦行を行うことを決めました。
その時に父親である王様が、釈迦が修行に出ていることを心配して、5人の使者を釈迦のもとへ派遣しました。釈迦はその使者たちと共に苦行を開始しました。

何日もほとんど水や食べ物を口にしなかったり、呼吸を止めたり、雨が降る中も太陽の光が降り注ぐ中も座禅をし続けたりと厳しい修行を続けました。

そのような苦行を6年間続けました

釈迦は痩せこけてしまい、体は骨と皮だけのようになってしまいました。
そしてここまで苦しい極限の修行をしても、真理にたどり着けないことに気づき、疲れ果てた釈迦は修行をしていた山から下り、川で沐浴(体を洗い、清めること)をした後、ある村にたどり着きます。
村で痩せこけていた釈迦が歩いていると、優しい村娘スジャータが近づき、ミルクのおかゆを差し出してくれました。釈迦は悩みました。

もし、ここでおかゆを食べてしまうと、今までの極限の苦行が水の泡になります。しかし、疲れ果てていた釈迦はそのおかゆをもらい食べました。

おかゆを食べたことにより、共にいままで修行してきた5人の修行仲間は釈迦がついに修行をあきらめて、堕落してしまったと思い、釈迦のもとを離れていってしまいました。
一方、おかゆを食べ終えた釈迦は体力が回復してきたので、気持ちも新たに菩提樹という木の下で瞑想を始めました。(この菩提樹はインドのブッダガヤという場所に今でもあります)

ここでの瞑想は釈迦はいままでとは違い、この世の真理について楽しみながら、スムーズに考えつづけることができました。この瞑想は49日間続き、ついに釈迦はこの世の真理を悟り、仏陀(悟りを開いた人)となったのです。この時、釈迦は35歳でした。

悟りを開き仏陀となった釈迦は

釈迦のもとを離れていった5人の修行仲間のところへ行き、悟ったことを次のように説教(話をして教えること)しました。

人間は厳しすぎる道を選ぶと苦しむ。しかし、楽すぎる道を選んでも苦しむことになる。その真ん中の道を選ばなければならない。(中道)

この世のすべては移りかわる。人はいづれ死ぬ。昼は夜になる。花は咲きづづけることはできずいずれ枯れる。常に同じで変わらないことはない。変わらないことを求めることで苦しみが発生する。(無常)

物事はそれ自体で存在しているのではなく、他の物との関係があり、その結果として存在している(縁起)

説教を受けた5人は釈迦の弟子となり、釈迦の入滅(死ぬこと)のあとも釈迦の教えを後世に伝えていきました。その教えをもとにした宗教が今日の仏教です。

仏教とは

釈迦が悟りを開いて皆に説教したことは、人間の「苦しみ」はどう考えたら対処できるか? というものです。
これは神様や仏様を信じる宗教ではなく、自分の心をコントロールする方法なので、哲学になります。つまり、釈迦は宗教家ではなく、哲学者です。

たとえば中道の考え方を試験勉強で説明すると、人間は体力や気力に限界がある生き物なので、睡眠時間を削って猛勉強し続けるより、適切な睡眠時間をとって集中して勉強したほうが結果的には良い成績が取れます。こういった人間の理性を哲学したのが釈迦です。

では現在の仏教という宗教はどこからきたかというと、釈迦の弟子たちや、その弟子から釈迦の教えを学んだ者たちが釈迦を仏様という人間を超越した存在にし、宗教になりました。
一方、宗教ではなく釈迦の考え方を哲学として捉えて、実践することをブディズム(仏陀主義)といいます。

豆知識

  • 紅茶やコーヒーを販売している会社「スジャータ」の名前の由来は、釈迦にミルクがゆを渡した村娘スジャータから来ています。
  • 人が亡くなってから49日目に法事をしますが、それは釈迦が悟りを開くまでの日数49日間に由来しています。人は死んでから49日後に悟って仏様になり、あの世に旅立つという理由です。

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